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「フランス/パリ滞在質問箱」に時折割り込んで掲載   私書函版「フランス/パリ・子育て雑記」(第4回)

「フランス/パリ滞在質問箱」に時折割り込んで掲載  
私書函版「フランス/パリ・子育て雑記」(第4回)

第4回 未熟児(PREMATURE・プレマチュレ(3) 
1973―4年のことを書いています。外国人の滞在管理は現在よりはるかに牧歌的でした。学生滞在者が多い事情は現在と同じですが、事前に留学VISAを取り付けて渡仏しなくても、3か月滞在を超えた時点で、学校登録証明を提示すれば、パスポートのページ上にREGULARISATION-VISA(現地VISA)が押印されたり・されなかったりで、いずれにしても滞在許可証は発行されるのでした。現在のように「学生」(ETUDIANT-ELEVE)といった滞在身分はなく、1年ものの「滞在許可証」なのでした。労働許可には労働許可証が別途に発行されていました。滞在許可は緩やかではあったのですが、労働許可取付けの煩わしさは現在とほとんど変わりません。ところで、前章の末尾にこう書きました。
「不充分ながらもこうしたSECU事情の情報収集で得た結論は、家内が職についてSECUに加入することでした。そのために前年の1973年秋口から動いていた」のです。
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労働許可申請・取得の仕組みは、当時も今も基本的に同じです。申請を審査するお役所も同じです。ここにフランスの会社Aがあります。ここに外国人Bがいます。AはBを雇用したい、BはAで働きたい。ここでAB間に「労働契約」(CONTRAT DE TRAVAIL)が成立します。この「労働契約」をお役所が承認すること、これが「労働許可が下りた」です。もっと具体的いえば、AB間に成立した「労働契約書」の内容の要点をまとめたペラ1枚の「労働契約状」(お役所の所定書式)にお役所が認可印を押すこと、
これが「「労働許可」が下りたことになります。3部(場合によっては4部)あって、当人Bが1部、雇用者Aが1部、お役所が1部(場合によっては2部)、それぞれ保管することになります。もとより、こうした労働許可の事情を知ったのは後年ことです。当時、「そもそも労働許可とは、、、」を説明してくれる人は、僕の周辺にはいませんでした。
労働許可は、A・B両者の共同申請のカタチを取りますが、雇用者Aが「キミのために労働許可を取ろうじゃないか」の意欲を持ってくれないことには、前に進みません。Aに外国人雇用税が課せられることもあります。それ以上に、社会保障(SECURITE SOCIALE(略称SECU) )の雇用者負担が重いことが、「労働許可を'取ろうじゃないか」の意欲を鈍らせます。こうした雇用側の事情を知ったのもはるかに後年ことです。
当時の日本人雇用・労働市場は、ほとんどが日本人観光客を対象にしたものでした。旅行代理店、免税品店、日本食レストラン、日系食品店などです。その全部ではないでしょうが、労働許可申請には石橋を叩いても渡らない慎重な姿勢でした。まず初めに試雇ありきです。1、2週間で辞めてしまうかもしれない、辞めはしないものの使いものにならないかもしれない、仕事上のモラルが低過ぎる、、、、いろいろありましょう。3-4か月見当の試雇期間を経て「これは使える」から「キミの労働許可を取ろうじゃないか」になるわけです。家内もそうした流れの中にあって、労働許可申請の準備に入っていたのでした。ところが、妊娠していることが判明して、申請直前にキャンセルになりました。1973年秋のことです。
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ここに、エリゼ宮(大統領府)からの1枚の手紙があります。家内の名義で当時のジョルジュ・ポンピドウ(GEORGES POMPIDOU)大統領に書き送った手紙への返書です。もちろん、大統領当人の署名ではなく広報室担当官(CHARGE DE MISSION)の署名です。日本語にしてみます。
「大統領はあなたの手紙を確かに受け取り、注意深く読まれました。そして、私に指示がありました。あなたが直面している問題を当大統領府が直接扱うことはできませんので、担当当局(HAUTE AUTORITE)に申し伝えます。同局は特別の配慮をもってこの問題の処理に当たり、あなたに連絡することになりましょう」。
こういった内容です。
今回、この「子育て雑記帳」を書くために、あれから40数年、3回の引っ越しで行方不明になっていたこの手紙を半日かけて見つけ出しました。
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家内が妊娠していたので、試雇先の会社が労働許可申請を取り止め、申請書類一式を反古にしたことに対して「自由、平等、博愛を国是としている貴国はこうした反ヒューマニズム的行為を許すのか。国是を踏みにじるものではないか」と大上段に構えて抗議したのでした。上述は、この抗議文への大統領府(エリゼ宮)からの返書だったのです。大上段に構えた抗議文の方はコピーが残っているかどうか、返書と同じ書類袋に入っているのか、確かめていません。恐くて読む気になれません。「こんな拙いフランス語の手紙をよくも出したものだ」になるかもしれません。恥じ入るばかりです。逆に「思ったよりヒドクない」であれば、僕のフランス語力は40年前から1ミリも進歩していない、になるわけで、これも(本当のことだけに)冷厳な事実を突きつけられるのは嬉しくありません。いずれにしても精神衛生上よろしくありません。それは避けたい、いまさら見たくない、の心境です。
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当時、QUID(クイッド)という2000ページを超える分厚な年鑑を愛用していました。QUID(クイッド)は1963年に創刊、1997年に1998年度版が出て、それ以降はインターネット版になりました。今回、調べたところ、2010年以降はインターネット版も無くなったようです。
それはさておき、当時のQUID(クイッド)をペラペラめくっていたところ、こんなことが記されていました。大統領府(エリゼ宮)によれば、大統領宛ての私信は年間5000通強あり、余程にふざけた手紙でない限り、大統領広報室は返書を出す、とありました。そうであれば、この抗議文も5000通強の一つに過ぎず、その返書も社交辞令のようなものでしょう。事実、返信文面にある「担当当局(HAUTE AUTORITE)に申し伝えます。同局は特別の配慮をもってこの問題の処理に当たり、あなたに連絡することになりましょう」の「追っての沙汰」は一向にないのでした。
ということで、家内の滞在許可証、労働許可証、セキュ(社会保険)加入は一向に進まないまま、緊急入院、早産、未熟児誕生になってしまったのでした。
産院会計からは、2週間おき見当で督促状が届いたと記憶しています。文面は「SECU番号を知らせよ」の刷り物でした。印刷文面の余白に手書きで「URGENT」(緊急件です)があるのでした。僕も「ただ今、SECU番号申請中です。いましばらくお待ちください」の決まり文句の手紙を書き送っていました。保険の常識から見て意味のない手紙です。保険は、それが公共保険であっても、物事の発生後に加入しても有効になるとは思えません。「今、加入手続き中です」は返事になっていません。おそらく産院会計も僕の返事を読んでいないでしょう。未処理件用の書棚かファイルに放り込まれているのでしょう。それで、たしか3通目の督促状「至急SECU番号を知らせよ」が郵送されてきた時だったと思います。病院会計窓口に直接足を運んだのでした。こんな督促状をもらっている者ですが、家内の出産費はいくらなのか、未熟児費用はいくらなのか、SECUは今からの加入でも有効なのか。きわめてまともな質問のつもりでしたが、応対した中年マダムは怒りだし、ヒステリー状態になりました。聞き取り不能です。督促状の余白に乱暴に数字を書いて突きつけ、奥に引っ込んでしまいました。その数字は辛うじて2万XXX(フラン)と読めました。当時のフランスフランと円のレートは、1万円が170フラン前後で動いていましたから、円にして350万円見当ということでしょうか。それも、診療料金表を取り出して、電卓を叩いて出た数字ではなく、会計マダムが支離滅裂(僕の聞き取り能力では)な状態で出てきた数字ですから、どう考えたらよいのやら。とはいえ「このくらいの数字であろう」の妥当性は感じたものです。後日談になりますが、この数字はほぼ当たっていました。数字は既に算出されていたのかも知れません。
さて、その後もエリゼ宮からの返書にある「追っての沙汰」はなく、病院会計からの督促状も途絶え、といって正式に2万XXX(フラン)の請求書が届くわけでもなく、宙ぶらりんの日々が続きました。
                    *
世の中も大統領選を控えて落ちつかないのでした。1974年4月2日にジョルジュ・ポンピドウー(GEORGES POMPIDOU)大統領が亡くなり、後任の大統領選になっていました。考えてもご覧じろ、です。家内名義で出した抗議書の返書が届いたのは1974年Ⅰ月下旬です。その時期に、ポンピドウー大統領は病床にあったことでしょう。そして4月には亡くなりました。返書を実際に書いた秘書も主君交代で、既にエリゼ宮を去っていることでしょう。エリゼ宮が何か手を打ってくれているでしょうか。それは余りに楽観に過ぎるのではないでしょうか。返書はあくまでも社交辞令とみるべきではないでしょうか。
知り合いのフランス人からこんな悲観的な見方が出ました。選挙戦に入ると役所は仕事に動かない、選挙後は人が大幅に動く。5月になるとVACANCES先を決め予約に走るので浮足立つ。キミの持ち込んだ件は両期にまたがっているよ、と、、、。

さて、1974年5月5日の第一回投票の結果はこうでした。
フランソワ・ミッテラン (社会党第一書記)   左派連合            43.25  %
ヴァレリー・ジスカールデスタン(蔵相)    独立共和派           32.60  %
ジャック・シャバンデルマス  (元首相)    共和国連合(ドゴール派) )  15.11  % 
2週間後の第2回投票では、
ヴァレリー・ジスカールデスタン(蔵相)    独立共和派           50.81  %
フランソワ・ミッテラン (社会党第一書記)    左派連合           49.19  %
 
僕は選挙後の7月に惜敗したフランソワ・ミッテラン社会党第一書記にインタヴューしました。美術批評家の故江原順先生(1927-2002)が、社会党左派系の政治研究グループCERES(1)に知り合いがいて、そのルートで実現に漕ぎつけたものです。

(1)CERES : 正式名は CENTRE D’ETUDES,, DU RECHERCHE ET D’EDUCATION SOCIALISTE(社会主義教育・研究・調査センター)。同センターには、後年、国防相、内相、教育相などを歴任したジャン・ピエール・シュヴェヌマン(JEAN  PIERRE  CHEVENEMENTがいました。第三次CO-HABITATION  保革共存内閣(1997-2002)=ジャック・シラク大統領、リオネル・ジョスパン首相(社会党)内閣では内相を務め、SANS  PAPIER(違法労働滞在者)のREGULARISATION≪正常化)を断行しました。シュヴェヌマン内相が出した特別令(1997年6月24日付CIRCULAIRE(通達))に14万件の労働許可申請があり、10万件に許可を下ろした、とされています。
                           *
ミッテラン社会党第一書記インタヴューは、独占会見ではなく共同会見でした。但し日本のプレスは一社も参加しない会見なので、独占インタヴューとしても一向にかまいません、がフランス社会党広報部の回答でした。
この時、ミッテランさん57歳、ご尊顔を眼前で拝しました。カメラマンを連れ、テープレコーダーを持ち込みました。周辺にいたフランス人ジャーナリストが「ヤシカか?」と聞くので、カメラマンが手にしているカメラのことだと思い込み、「ニコンだ」と答えたところ、怪訝な顔をされたものです。
ミッテランさんのスピーチが始まりました。大統領選でジスカールデスタン大統領を微差に追い詰めた自信と次期大統領選は勝てるの確信が全身に漲っていてました。並みいるプレス陣相手のスピーチでしたが、時折、僕に目をくれました。日頃目にしない毛色の変わったのが来ているな、の目でした。僕はそう感じました。その時です、天啓のようにあることに思い当りました。「ヤシカ?」ではなく、「エナシカ?」と聞かれたんだと。「エナシカ」とはNHKです。正確にカタカナ化すれば「エヌ・アッシュ・カー」。この時期、日本のプレスといえばフランス人ジャーナリストにはNHKであったことが窺えます。1974年7月です。このインタヴューは週刊ポスト1974年7月26日号に掲載されました。一見、調子よくジャーナリスト活動をやっているかに見えますが、実際のところは、未熟児費用の負債に喘えいでいたのでした。心が重く気分の晴れない30歳の夏でした。
                    *
青天の霹靂というべきでしょうか、奇蹟というべきでしょうか。家内宛てにPREFECTURE DE POLICEから出頭通知(CONVOCATION)が届きました。滞在許可証を出すので顔写真をもって出頭するように。
「追っての沙汰」が動き出したのでした。
2016年2月21日  記    岡本宏嗣
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