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「フランス/パリ滞在質問箱」に時折割り込んで掲載(第2回)  私書函版「フランス/パリ・子育て雑記」

「フランス/パリ滞在質問箱」に時折割り込んで掲載(第2回) 
私書函版「フランス/パリ・子育て雑記」

第2回 未熟児(PREMATURE・プレマチュレ(1)                           
40年も前のことです。1974年3月22日午後、エソンヌ(ESSONNE)県のヴェリエール・ル・ビュイソン(VERRIERES LE BUISSON)という場所にいました。ヴェリエール・ル・ビュイソンは同市の案内によれば、パリから南西に14kmの地点、とされています。
さて、ここに1冊の本があります。竹本忠雄著「マルローとの対話」(1996年、人文書院刊)。
アンドレ・マルローANDRE MALRAUX(1901-1976)との8回にわたる対話を詳細に記録したもので、その131ページに「第三の対話 1974年3月22日 ヴェリエール」とあります。
私は日本では出版社に勤務して週刊誌の編集をしていたことから、アンドレ・マルロー研究家の竹本忠雄先生(現筑波大学名誉教授)とは連絡がありました。こんなことがありました。マルローは、1971年、バングラディッシュがパキスタンから独立する際の独立戦争で、その義勇軍に参加意志があることを表明したのでした。日本から在パリの竹本忠雄先生に「アンドレ・マルローの義勇軍参戦の真意やいかに」の独占会見記を依頼し、同誌に掲載した経緯がありました。1972年4月に同先生を頼ってパリに来て2年目、そんな時期のことです。
「岡本君も一度マルローに会ってみませんか」の誘いに乗って、カバン持ちとして1974年3月22日、後年「マルローとの第三の対話」となる会見に便乗し、同席の栄を頂戴したのでした。他にもユネスコ本部勤務だったH先生、撮影のT君も参加しました。
そこは、マルローが起居していたヴィルモラン(VILMORIN)邸でした。館主で女流作家・詩人のルイーズ・ド・ヴィルモラン(LOUISE DE VILMORIN1902-1969)は既に亡くなっていて、その姪のソフィー・ド・ヴィルモラン((SOPHIE DE VILMORIN1931-2009))の代になっていました。ヴィルモラン家は、植物の種、苗を扱う名門で、ヴィルモラン邸には広大な栽培園がありました。
しかし、そうしたことをしっかりと知ったのは後年ことです。この日は頭の片隅に薄ぼんやりしたものがあるだけでした。マルローと芸術、文学上のパートナーであったルイーズが日本語訳で「妖婦か聖女か」(1)と題する伝記の主人公であることなど全く知りませんでした。もちろん、ルイーズは既に亡くなっていて、
眼の前に現れたのは、その姪ソフィーだったのでした。そのソフィーも2009年に78歳で他界したとのことです。
(1)ジャン・ボトレル(Jean Bothorel)「 Louise, ou la Vie de Louise de Vilmorin, 」Grasset刊, 1989
日本語訳(ルイーズ、妖婦か聖女か)(北代美和子訳、東京創元社刊)

ヴィルモラン家が植物の種、苗を扱うフランスの大手、名門であることは、後年、必要があって、日本のタネ会社情報を集めた際に確認できたことでした。
                  *
この日3月22日の前日、女房殿がパリ14区の産院オピタル・コシャン(HOPITAL COCHIN)に緊急入院していたのでした。そして、3月22日夜に長男が生まれたのでした。翌23日早朝に産院に駆けつけると、10床はある大部屋の入口にパリ14区市役所出生課のおばさん職員がデスクを構えています。
大きな出生台帳を開けていて「生まれた男の子の名前は?」というのです。
日頃から、女房殿はお腹をさすりながら、女の子だ、女の子に決まっていると断定していたので、
女の子の名前は決めていました。とはいえ、男の子である可能性も多少は考慮して「近々にマルローと会う予定だから、その縁で、男の子だったら「“まるろ”にしよう。カタカナのマルロではなく、ひらがなの“まるろ”がいい。マルローの音だけをもらおう」程度の打ち合わせはしていたのです。
本音は「この地パリで育てられるだろうか」の不安だけが重く心を占めていました。
「“まるろ”にするぞ」とベッド上の女房殿に告げて、「まるろ」のヘボン式綴りMARUROと届け出をしました。
                    *
出生届出作業を終えて、ところで、ご当人の「まるろは」といえば、プレマチュレ(PREMATURE)で別室にいる、ということでした。
プレマチュレというフランス語を知りませんでした。院内の公衆電話から竹本先生に電話を入れ「プレなんとかといっているのですが」と報告すると、「それはプレマチュレでしょう。体重不足の未熟児、早産児でしょう」の説明で、ようやく得心しました。今でこそ、それはNICU(NEONATAL INTENSIVE CARE UNIT)といって、日本語では新生児特定集中治療室のことです、のわけ知り顔ができますが、その時は「未熟児の費用はいくらくらいになるのか、払えるのだろうか」。まずは金銭面の心配に襲われたのでした。
セキュリテ・ソ―シャル(SECURITE SOCIALE)と呼ばれる健康保険には入っていませんでした。海外旅行傷害保険はありましたが、出産には効きません。ましてや未熟児費用に適用されるわけがありません。「この費用を払えるのだろうか」で頭が充血していたと思います。
1974年3月22日午後、アンドレ・マルローとの会見に便乗、同日夜、長男まるろ出生。翌日、まるろが体重1250gのプレマチュレ(PREMATURE)で産院預かりとなることを告げられ、不安に駆られる。当時の家計簿兼日記にはそう書いてあるだろうと、40余年前のものを部屋中探して引っ張り出したところ、3月20日―27日まで抜け落ちていました。日記を付ける余裕などなかったのでしょう。
「3月28日、家内は産院を退院」とあるばかりです。退院時に家内の出産・入院費用の請求もないので、いずれ請求が来るのだろう、不安な気持で病院を後にしたのでした。                   「フランス/パリ/子育て雑記」の出発点はここです。そして、40年近く続けている「滞在相談室」の出発点でもあるでしょう。
2016年Ⅰ月2日    岡本宏嗣
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