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「フランス/パリ滞在質問箱」に時折り割り込んで掲載(第18回)  私書函版「フランス/パリ・子育て雑記」(第18章)

「フランス/パリ滞在質問箱」に時折り割り込んで掲載(第18回) 
私書函版「フランス/パリ・子育て雑記」(第18章)

プレパ(PREPA)からグランゼコール(GRANDES ECOLES)入試へ(1) 

カルロス・ゴーン(CARLOS・ GHOSN)さんを「事件の渦中にある主人公」としてではなく「フランス/パリ・子育て雑記」の目で見てみましょう。丁度、プレパ(PREPA),
グランゼコール(GRANDES ECOLES)に触れている折りでもあります。

ゴーンさんは1970年、16歳でレバノンから単身でパリにやって来ました。
自伝ともいうべき「ルネッサンスー再生への挑戦」(2001年ダイヤモンド社刊)によれば、HECを出た伯父さんだか叔父さんがフランスで事業をしている、とうことでした。   レバノン内戦(1975-1990)が本格化する前夜です。STANISLAS(スタニスラス・パリ6区)という学校に入学しています。    
スタニスラスは1804年創立、MATERNELLE(幼稚園)、PRIMAIRE(小学校・5年制)、COLLEGE(中学校・4年制)、LYCEE(高校・3年制)、PREPA(プレパ・2年制)までを擁する私立カトリック系の一大名門学園です。              僕が勤務していた在仏日本人会が「実用フランス語技能検定試験」、通称「仏検」の「パリ試験会場」を引き受けていた時期がありました。その試験会場としてパリ6区のスタニスラス校の教室を拝借したことが2~3回あります。もちろん授業のない日曜日にです。会場使用後、日を置かずに送付されてきた賃貸料請求書は賃貸料の高さもさることながら、同封されている文面に伝統校の威勢がにじみ出ていたように記憶しています。さすが名門校、気位が高いな、です。(注1)

(注1)2004年、次男坊がグランゼコールの入学試験を受けた際の報告です。後章で触れることになりましょうが、グランゼコールの試験はCONCOURS COMMUNS(学校グループごとの共通試験)方式です。10~20校が一つのグループ(通称BANQUEバンク)になっていてグループ共通試験が行われます。その成績順に進学先の選択権があります。
試験会場はVINCENNES(ヴァンセンヌ)のPARC FLORAL DE PARIS(パリ花公園)内にあるHALLE DE LA PINEDE(ピネッド・ホール(9750~10200m2)でした。こんなエピソードの報告がありました。
初日、朝8時から数学の試験(4時間)です。試験開始10分ほど前、試験事務局のマダムが
数千人の受験生に向かって「こんなメッセージが届いています」とFAXを読み上げました。「STAN諸君!」 会場内のそこかしこいるSTANプレパ生数百人が「Oh(オ-)」と応じます。以下はユーモラスな激励文になり、最後は爆笑で終わり。STANはSTANISLASプレパ生の呼称です。
VERSAILLES(ヴェルサイユ)には全国トップクラスのLYCEE SANTE GENEVIEVE
(サント・ジュヌヴィエヴ)があります。私立、全寮制のプレパ専門校です。
GINETTE(ジネット)の呼称があり、ここも「GINETTEの諸君に告ぐ!」のメッセージが読み上げられたということでした。

ゴーンさんはスタニスラス校生でBACをパスしていることになります。「16歳からフランスでの学業開始でよくBACが取れたなあー」ですが、理由のあることでした。レバノンはベイルートのCollège Notre-Dame de Jamhourで小、中学生を過ごしているのです。この学校はフランス系で「フランス国外のフランス教育機関」としての認定校です。(注2)

(注2)AEFE(AGENCE POUR L‘ENSEGNEMENT FRANCAIS A ETRANGER/海外
フランス教育庁)による認定です。ほぼ毎年、認定校リストがJ.O(JOURNAL OFFICIEL(官報)に掲載されます。最近では、2018年6月1日付
Arrêté du 11 juin 2018 fixant la liste des écoles et des établissements d'enseignement français à l'étranger homologués.に認定校リストが掲載されています。
このリストを見ますと、日本は東京、京都の「国際フランス学園」(LYCEE FRANÇAIS INTERNATIONAL DE TOKYO(KYOTO)2校です。レバノンには実に44校もあり、旧宗主国として幅を利かせています。ちなみに米国は47校、中国は8校。

BAC取得後、STANISLASのプレパではなく公立のLYCEE ST LOUIS(サン・ルイ、パリ6区)のプレパに進んでいます。ここは、高校(3年制)部門はなく、プレパ(2年制)部門のみを設置しているLYCEEで、全国プレパの中でトップレヴェルにあります。
ゴーンさんはサン・ルイのプレパ生として1974年にポリテクに合格しています。
                **
WIKIPEDIA日本語版で「カルロス・ゴーン」を見ますと、最終学歴が「パリ国立高等鉱業学校」になっています。「パリ国立高等鉱業学校」という校名は平板な印象を与えますが、1783年創立の伝統校、超難関校のECOLE D’INGENIEUR(技術系グランゼコール)です。
正式名は、ECOLE NATIONALE SUPERIEUR DES MINES DE PARIS(略称、MINES PARIS/ミンヌ・パリ)です
そして、MINES PARISとは別にCORPS DE MINES(コール・ド・ミンヌ、鉱業技師団)という集団があり、まぎらわしいのです。
ポリテクでの席順がトップ10数名が工業省(MINISTERE DE L’INDUSTRIE)のFONCTIONNAIRE(国家公務員)としてパリ6区のMINES PARIS 校舎内で研修を受けます。これも3年制です。ポリテク卒業生の他にMINES PARIS (ミンヌ・パリ)、NORMAL SUP(ノルマル・スップ)をトップクラスで卒業した10数名も同集団の構成員です。超々エリート集団といえましょう。
こういう事情なので、ポリテクを出たゴーンさんの最終学歴もCORPS DE MINES(コール・ド・ミンヌ、鉱業技師団)ではないか、最終学歴がMINES PARIS(ミンヌ・パリ)は間違いではないか、と思ったのでした。 (注2)(注3)
ゴーンさんは1978年にはミシュラン・タイヤに入社しています。
1974年9月  ポリテク(3年制)合格・入学
1977年6月  同校卒業
CORPS DE MINES(コール・ド・ミンヌ)は3年制のハズですから、1978年にミシュラン・タイヤに就職では年勘定が合いません。
1977年9月―1978年6月 MINES PARIS
1978年9月 ミシュラン・タイヤ就職 
MINES PARIS校には1年間しか在籍していない年勘定になります。

この疑問は「CARLOS GHOSN CITOYENT DU MONDE」(GRASSET刊2003年)という本の中で解けました。カルロスさん自身が説明しています。
「当時は二つの方法がありました。一つは公務員になってCORPS DE MINES(コール・ド・ミンヌ)に入団する方法。これは3年間拘束されて、3年修了後、8年間は省庁に勤めなくてはなりません。もう一つは、そうした拘束はなく自由に学ぶ方法です。私は省庁官僚になる気がなかったので後者を選んだのでした」

(注2)八幡和郎著「フランス式エリート育成法―ENA留学記-」(中公新書 1984年刊)にこんな記述が見えます。
「鉱山技師団に採用された者は、三年間パリ鉱山学校で研修を受ける。ただし、パリ鉱山学校の一般学生と共同の研修はほとんどなく、単に間借りしているだけに近いといえる(このパリ鉱山学校と鉱山技師団の関係はしばしば誤解されている)。

(注3)CORPS DE MINES(コール・ド・ミンヌ/鉱業技師団)に次ぐのはCORPS DE PONTS ET CHAUSSES(コール・ド・ポン・エ・ショセ/土木技師団)でしたが、2009年に改組され、CORPS DES INGENIEURS DES PONTS, DES  EAUX ET DES FORETS(コール・デ・アンジェニユール・デ・ポン、デ・ゾ・エ・デ・フォレ/
土木・水・森林技師団)となっています。母体となっているのは、ECOLE NATIONALE DES PONTS ET CHAUSSEES(略称 PONTS CHAUSSES/ポンショセ)です。1747年の創立。前出のミンヌ・パリ(1783年)、ポリテク(1794年)、
ノルマル・スップ(1794年)より古参の超名門ECOLE D’INGENIEUR(技術系グランゼコール)です。
**
ゴーンさんがコストカッターといわれながら日産自動車を再建して快進撃中のスターだった2000年代初頭、パリ商工会議所本部(27, AVENUE DE FRIEDLAND パリ8区)でゴーンさんの講演会がありました。国際ビジネス戦争に圧勝した凱旋将軍の戦勝報告会、といった趣きでした。TV局のカメラも派手に回っていました。来場者は商業系グランゼコール御三家といわれるHEC、ESSEC、ESCP(EUROPE)の学生が多かったように記憶しています。誰もが凱旋将軍に尊崇の熱い視線を送っているように見えました。(注4)
どういうイキサツでこの講演会に足を運んだかは忘れました。家内と一緒に出かけたのでした。定刻より早く着いたので、最寄りのカフェでコーヒーを立ち飲みして時間ツブシをしました。そろそろいい時間だろうと勘定を済ませてカフェの外へ出ると、一足先に出た家内が拙宅近所の肉屋店主とおぼしきオヤジさんと立ち話をしています。一、二歩、身を引いた位置で二人の立ち話を聞いていたところ、
「ニホンノドコカラキマシタカ?」
「九州です。大分県です」
「キュウシュウ! シッテイマス、イッタコトアリマス。カンダニコウジョウガアリマス」
こんなカタコトの日本語会話をして、にこやかに立ち去っていきました。その後ろ姿を見つつ、
僕「アレツ!あの人、肉屋さんじゃないよ」
家内「ゴーンさんよ。日本人の観光客と見て声をかけてきたのよ」

以下は、九州大分県中津市出身の家内の案内です。中津は福沢諭吉の生誕の地で中津駅前センターには諭吉の銅像がそびえ立っています。
「カンダ」は神田神保町の神田ではなく、福岡県の京都郡苅田町。京都郡は「みやこぐん」と読み、「カンダ」は「苅田」と書く。九州日産自動車の工場がある。日豊線苅田駅から大分県の中津駅までは数駅、20分見当。

そのゴーンさんが背広姿で会議所ホールに登壇したのは、その10分後でした。
講演内容はほとんど憶えていません。フランス人向けの講演会なので日本語通訳はありません。一点だけ憶えています。日本語にすればこういった内容でした。
日本人は(といっても日産社員のことでしょうが)物事を決めるのにえらく時間がかかる。しかし、いったん物事が決まると猛スピードで走り出す。チームワークもよい、それは見事な人たちだ」
              **
ゴーンさんはレバノン国籍、ブラジル国籍そしてフランス国籍を持っています。
両親がレバノン人ですからレバノン国籍は当然でしょう。また、祖父の代からブラジル移民でゴーンさん自身もブラジル出生ですからブラジル国籍を持っていることもうなずけます。ところで、フランス国籍はいつ取ったのでしょう。               18歳になったプレパSAINT LOUIS(サン・ルイ)の時点でしょうか。ポリテクに合格した1974年でしょうか。どちらでもよいようなものですが、ちょっと関心があります。
両親ともが日本人のPOLYTECHNICIENポリテクニシャンをこれまでに二人知っています。一人Aさんは日本出生、5歳で両親に連れられて渡仏しています。ポリテクに合格してからあわててフランス国籍を緊急申請して取得したと聞きました。もう一人のBさんは、フランス国籍の取得はせず日本国籍を通したということでした。ポリテクの1年目は将校・準少尉(OFFICIER・ASPIRANT)としての兵役(SERVICE MILITAIRE)訓練が大半を占めるそうで、外国籍(=日本国籍)のBさんは、ほとんど何もすることがなかったといいます。また、外国人学生であることから、学費(FRAIS SCOLAIRE)もたいそうな額で銀行からお金を借りたそうです。ポリテクニシャンなのでホイホイ貸してくれたそうですが。ゴーンさんがいつフランス国籍を取得したかに多少の関心を持つのはこうした事情があるためです。
いずれにしてもゴーンさんは「国籍は多いほど便利だ」という考え方の持ち主ではないかと推測します。この推測を逞しく推し進めれば、ゴーンさんは日産自動車の会長になって経営改革が成功した時点で「日本国籍」についても脳裏をかすめたのではないでしょうか。側近に「日本国籍」取得の事情を調べさせたのではないでしょうか。少々性急な見方かも知れませんが。
ゴーンさんがルノー・日産・三菱自動車連合の会長職を辞した後、その身の振り方をどう考えていたか。目指すはブラジル大統領ではなかったか。フランスは論外、レバノンは国情が複雑に過ぎる、残るのはブラジルです。ブラジル移民の3世、6歳までブラジルで育っています。1980年代にはミシュラン・タイヤ南米支社長としてブラジルに戻ってもいます。現在、総額約50億円とかの報酬トラブル、それも退任後に受け取り予定といったことが取り沙汰されていますが、それを選挙資金と見立てることに無理がありましょうか。あまりにも穿ち過ぎな推測でしょうか。

2018年12月21日   岡本宏嗣  記 
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